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「○○と半年ぶりに会った相変わらずポジティブで明るくて元気になる」とストリーに私のことが書かれていた。彼女は小学生の頃からの唯一の友達。私たちは純粋だった。彼女は今日妊娠して結婚することを教えてくれた。半年前、いや一年前から変わっていないのは私だけだ。
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“与えられた場所で咲きなさい的な言葉正直昔から苦手。そもそもそこで努力できる人はどこでも努力できる人。そこで努力できない人はどこでも努力できない人。そこで輝ける人は才能がある人。そこで輝けない人は才能がない人。言葉にして外に出せば出すほど私たちは消費され続ける。人は結局1人なのだと痛感する。”
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きっと私はこの先なれなかった私にずっと後悔しながら生きていく
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なんか死にたくなってきちゃった
この先希望あるのかな
考察
子供と大人の違いはあげればキリがないほどあるがその中でも『記憶能力』に関しての違いを多くの人が感じているはずだ。
池谷裕二先生によると
大人と子供の最も大きな違いは
「モノごとを鮮明に見られるか、そうでないか」だと言っている
大人になればなるほど、年を重ねれば重ねるほどたくさんの知識を入れることで
世界をフラットな状態では見られなくなる。
私は良く『大人になりたくない。ずっと子供でいたい。』と思っていた。
友達にそのことを言うと『それはみんな思っていることだから仕方ないよ。』と言われたが
どう仕方ないのかそれがわからなかった。
でも池谷裕二先生の話を聞いて
仕方ないというよりも、それは人間として生きることに慣れて記憶をツマラナイモノに塗り替えてしまえる人間になりたくないのだ。
そう思えば少し救われる気がした。
私はまだ生きることに慣れたくはない。
大人になりたくないの本質はここなのかもしれない。
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言葉で説明できることは脆い
言葉で表現できない感情や感覚の方が実際は何倍も大切だと思う
サルが人間になる過程で身につけた言葉での理解、認識は人を幸福にもしたがその何倍も傷つける手段になってしまった
なんとなく幸せ
なんとなく嫌だ
それで良かったのに人は理性を持った唯一の生き物だ
合理化や効率化、論理化を図りたがる
近代的知性がある意味その人の個性や才能を潰している
言葉は悲劇だ
でもきっと悲劇を希望にできるのも
また言葉なのかもしれない
誰とも関わらず生きていける人はいない
辛い時こそ本や映画を鑑賞したくなるのは
自分の中の悲劇の予測を裏切ってほしいからだ
まだ自分の知らない世界がこの世界には存在する“かもしれない”と言う想像自体が
私たちに生きる能力を無意識で与えているのかもしれない